2020年春 労働力の流動化が助長する?個人事業主はだいじょうぶか

 

ちょっとメモ書き。

先日、税理士さんと話をさせていただいていたときに首をかしげられた話なんですけど。

私の中では2020年以降、フリーランス個人事業主)は一時期いろいろと危ない時期に入るのではないか、という所感をもっています。

ポイントは

・2020年の税制改革が中途半端であったこと

https://www.lancers.jp/magazine/32575

・2019年10月からのインボイス制度

https://biz.moneyforward.com/blog/39560/

の二つに狭い意味ではなりますが。

これだけみると、いいじゃないの?と思われるかもしれません。

私の中のポイントは「働き方改革」です。

https://www.intage.co.jp/gallery/hatarakikatakaikaku/

来年4月から本格的にスタートする「働き方改革」先日も、正業副業の労働基準法上の労働時間管理の話がでていました。

★私が懸念していること

いまの政府の方向性は、労働形態の流動化です。ヨーロッパのように社会保障セーフティネットがない中での労働形態の流動化。

この数年の流れは、企業が、たとえば「派遣」という調整弁を使い、「労働の流動化」を現象として一定確保しつつ、インセンティブとして副業化などを間接的に推し進めてきました。つまりは、象徴的な看板として「副業」。ホリエモンなんかがそんなことを言っていましたよね。

そのことについて、制度的な規制をかけないから、ある種、秩序なくやれてきたところもありました。ほんとは違法だけど、わかんないよね。って。だから、やる側としては利があった。

ところが、今回は表だって、制度的に、「個人事業主」「フリーランス」を正業・副業としても、表面上推し進める制度改革です。「副業」も入れましたが、実はターゲットは「正業」すなわち、より労働力の流動性を高めて、自己責任を強く押し進める制度に見えます。

話が大きくなりますが、グローバル経済の敗者である日本は、国内のニッチな消費を所得の低い層の中で、回し続けていると現状があると思っています。この流れは、さらに拍車をかけます。個人事業主 フリーランスを増やします→税の申告や収入管理、事務的な作業はちっとも軽減されていません。IT化も遅れています。→税理士や労務士、司法書士行政書士などのいわゆる士業の人たちを頼らなければなりません。セーフティネットのために、生命保険などの保険にお金を投入します。などのなど。結局、お金をそちらに投下せざるを得なくなるのではないかという懸念です。

杞憂に終わればそれはそれです。「心配性の冨田が何か言っているで。」

でも、ちょっと立ち止まって、小さな会社であれば、先に引用した中にあるように「ティール型みたい」な組織も作れるように思います。ちょっと慎重に考えてみる時期だと思いますよ。

「本人・家族吊し上げ会議」になっていませんか?

019年12月09日

 

この土日、東京・秋葉原で「、ふわりんクルージョン」でした。

何年かぶりに、東日本大震災以降、使っていなかった頭の回路を復活させた感じの勉強になった会でした。その整理はまた、として。

そこ中での立ち話的なお話なのですが。

詳細は書けないですが。

介護保険や障害者総合支援法の中に制度的に位置づけられるようになった「個別支援会議」。「サービス担当者会議」。ご本人やご家族を入れて会議を行うことが必要・望ましいとされていますよね。

制度化されたのには意味があるわけですが、こいつがけっこう危険。

病院でも患者、家族を入れての会議もありますし、少し前に炎上した〇〇会議とかも(あれは本来ちょっと違いますが)。どんどん、そういった会議が制度化されます。

が、

実はそういった会議は二つの前提があります。

ひとつは、関係者は「性善説」に基づいた「専門性」を発揮するという前提。ここでいう「性善説」に基づいた専門性とは【ご本人、ご家族】の希望を第一にするということ。

もちろん、ご本人とご家族の希望が違うことは多々ありますが、ここではちょっと置きます。

もう一つは、集まった関係者、特に同業者が同じ意見をもっていること。

でも、みなさんそんなにうまくいってますか?

実は私はこの制度化された会議が「大嫌い」。

誤解のないようにやらなくていいとか、やめてしまえとか言ってるわけではないですよ。形骸化してるとめんどくさいとか無駄とか思うこともありますが、集まることには意味があることももちろん多い。

ただ。。。

この会議に

私がつけた別名は「本人・家族吊し上げ会議」。

くりかえし支援機関が「できない」「無理」を繰りかえし、本人、家族を批判し、説得してやめさせよとする。

本人の意思発意を制限する。ご本人が言えないなら決められないなら必要ないですという。

意見の違う事業所を集団で説得、従わないなら、「あんたのところがすべてやれ」とソフト恫喝

そんなことになるケース、特に重い障害のあると言われる人の会議である話と、カイマキキマス。

支援機関がすべてポジティブに応援できない場合は本当にやめてほしい。

ディスパワメントはともすれば虐待です。

介護の市場化から20年 見えているFieldとは?

毎年、ふわりんクルージョンのレポートを事細かに書かれる愛知県田原市の新井さんが、今年のふわりんクルージョンのレポートはこれだけ。「自分探しの旅へ(秋葉原) http://feel1999.cocolog-nifty.com/lallapallooza/2019/12/post-0742a7.html

 

さて。このふわりんクルージョン今年で10回目。
かの有名な「戸枝さん」が主催をしているこのイベント。
毎年のように強くお声かけをいただき、今年もお役目をいただきました。

 

そして、今年は彼の終わりの挨拶の中で、なんと「冨田」の名前が出ました。彼がその挨拶の文脈の中で「冨田」の名前を出さざるを得なかった現在の状況を、私は私なりにかなり重くうけとめています。

 

そして、新井さんが(単にそのあと旅にでたからかけなかったのかもしれませんが)、毎年のように書かれていたレポートが出てきてないことをこれも重くうけとめています。それは内容がどうのこうのということではありません。

 

この20年、いろいろなことがあり、いろいろな社会の動きがありました。
こうなることはわかっていながら、「それしかなかった」(これには大いに疑問がありますが)、2025年の超高齢化・団塊の世代の75歳突入にむけて、「介護の市場化」にふみきった。
そして、そのことは制度当初の目的を、クリスタルのように唱えられた「介護の社会化」には失敗しているけれども、十分な「介護の市場化」には成功したといえると思います。
おりしも、2000年日本は、失われた20年といわれる大不況の真っ只中。新たな雇用をうみだす必要性があったという側面も無視できません。いまや、医療・介護は産業別でいえば、全体でも三位、女性は一位です。

産業別就業者数(男女計、就業者数計=6,664万人、2018年平均)

https://www.jil.go.jp/kokunai/statistics/chart/html/g0004.html

 

こうした「介護の市場化」はことばを変えれば「制度ビジネス」の成立という側面も見いだしました。当初いわれていたシルバービジネスの創出にももちろん成立していますが、反面、全く制度外の大きなビジネス市場を生み出したとはいえないようにも思います。ここらあたりは日本の国民の政治への不信感と揶揄されることともリンクするでしょうね。つまり、一番もっているはずの高齢者の資産を市場に排出できない状況があいかわらず続いている要因です。いったいどこに資産をもっている高齢者はお金を使っているのか?ということになります。これに説得力のある資料は私はいまだみたことがありません。

 

こうした「介護の市場化」は保育や障害福祉の分野にも大きく取り入れられ、いまや介護・福祉・保育はサービス化し、ユーザーは「消費者」になってきました。それが「市場」か「制度」かということに左右されず、いまやあたり前になりました。

 

そして、いまわたしたちの目前に広がる(荒)野は、自ら生み出すエネルギーを仲間と共有し大きなエネルギーとする営みをみんなが失ってしまっているFieldです。本来、そのことを積極的に取り組むべきNPOは、「社会課題解決」という毒入りの美辞麗句により「制度化」され、そのエネルギーの多くを失ってきています。いまや「社会課題解決」はMarket niche needであり、営利企業にその主役を渡しつつあります。

よりAdvocateなSocial problemは(本来のポジションなんですが)「政治的(political)」かつ「Ideology」に近接・傾斜してきているように思えます。そして、それらはポリティカル・コレクトネス political correctness 社会の中で、深層で大きく分断化されているように感じます。

その分断化された社会深層が一気に顕在化するのではと思わなくもないですが、それはいまの日本の世界の中での位置を考えたときに、そんなことをしたら日本自体が沈没してしまうという懸念から起こらないのかなという気もします。極めてブラックですが。

 

私たちが実現したいと思ってきた社会は、市場が全面&前面の社会ではなかったはずです。市場はあくまでも手段だったはず。

エネルギーを失い「制度ビジネス」servantと課した「福祉業界」に未来はあるのか?

 

そういったことを考えるに十分な時間でした。

私自身もこの15年。狭い地域にひきこもってきていましたが、そろそろ大きく動きはじめようか、と思いはじめています。 

2019年台風15号に見る「風害」という被災の特徴 被災経験者視点から

昨年の台風21号に続いて今年の台風15号

台風15号で甚大な被害を受けたのに、まったく報道されない千葉県館山・南房総の様子 #台風15号 - NAVER まとめ https://matome.naver.jp/odai/2156808762096005401

台風15号】「暑くて寝られず」「ろうそく頼り」 千葉で停電続く、なお57万軒 断水も9万戸、ライフライン深刻 | 2019/9/10 - 千葉日報 https://this.kiji.is/543989177706021985

地震や水害とは違い「風害」と言っていい被災の類型だと思う。広い地域で被災、今日で72時間、道路の寸断もあるみたいだが電力会社のアナウンスからすると今日でかなりの停電は解消させるといっているみたいだし
(今日中は危うい?)東電「千葉の停電、11日中の復旧見通せず」 46万戸
https://www.asahi.com/articles/ASM9C2RWGM9CUTIL001.html

揚力ポンプの復活により断水も解消していくようだ。

昨年の台風21号で被災した者としてここからの潮が引くような関心の低下にまず懸念する。

大きな地域の停電は解消されてもここから電信柱の倒壊を直し、引き込み線の断線を調査して直していかなければならない。大→中→小と個別化されていくわけだ。電信柱がエリアですべて倒れていれば数週間かかる。
停電の場合、ニュースになるのは1万戸くらいから、それ以下だと関心は低下する。

もちろん、停電しているか、断水しているか、はその地域、その家の人しかわからないし、場合によっては両隣は復旧したけどみたいなことも起こる。道路のこっちと向こうみたいなことも起こる。

これは短時間特定範囲に起こる豪雨水害と風害に特徴的だと感じている。

地域の「共苦性」が起こりにくく「孤立」化しやすい。

今回の台風15号は過ぎたあと酷暑で熱中症の危険ということで「電気」に注目がいっているが風害の被害でこわいのは続く雨。(昨日、一部で雷雨があったりしたみたいだけど)

屋根が吹き飛んだり建物が壊れているから続く雨でいろいろなものがダメになる。

すでにブルシート不足も報道ででているけど屋根にはるのは厚さが#3000、ホームセンターに行かないとない。厚さが必要。それも、数ヶ月で実はだめになるけど。
https://www.amazon.co.jp/market-k-防水・厚手-ブルーシート-3000/dp/B01MXUSK9V


エリア的には特に千葉県南部や伊豆三浦半島なんかは兼業農家さんも多いだろうからシートさえ手に入れば自分たちでやれる人も多いだろうけど千葉市南部から東南部は市街地も多いし厳しいだろうなあとは高齢化の問題。
千葉県地図
https://www.pref.chiba.lg.jp/kouhou/kenmin/kenmin.html

千葉県の高齢化の状況
https://www.chiba.med.or.jp/general/iryonet/article/news/20130702/01/09.jpg

今回の被災状況をみていると過疎化、高齢化している地域がやはり弱い

追加でもう一つは千葉市の問題。東京に近いエリアと遠いエリアの格差。停電エリアをみると千葉市の南東部や南部。山もある。ここら千葉市長がんばってほしい。

停電してるから情報発信が遅れてるだけと信じたいけど、災害対策本部やボラセン遅い気がするのは、なぜ?
千葉県社協サイト http://www.chibakenshakyo.com/

千葉市社協は少しでている http://www.chiba-shakyo.jp/vc/%e7%81%bd%e5%ae%b3%e3%83%9c%e3%83%a9%e3%83%b3%e3%83%86%e3%82%a3%e3%82%a2%e6%83%85%e5%a0%b1/

あと被災エリア別荘が多い。これ懸念事項。お金持ちや芸能人「むちゃくちゃになったらしい」じゃなくて早々に行って発信して地域に恩返しして
東MAXが購入した館山の別荘が台風被害に 植樹した木もどこかへ
https://news.livedoor.com/article/detail/17059634/

別荘が多い地域は地域全体の復旧復興が遅れやすいとも言われています。

これだけ広域に住宅被害がでると去年の西日本豪雨同様、過疎化の進んでる地域の過疎化は助長するし、大阪北部地震台風21号同様、市街地の古い住宅は壊され、弱者の追い出しがはじまる。行政、社協npoの素早い的確な情報収集と発信を望みます。

今回なんでか、コンビニ動きのろいのもナゾ
台風15号/セブン10店、ファミマ2店、ローソン94店で休業|流通ニュース https://www.ryutsuu.biz/store/l090942.html

まさに「いま」の時代に求められている NPO法人のマネジメント論、実践

NPO(法人)が戦うべきは社会課題である」某有名NPO法人のリーダーたちがよく使うフレーズである。

1990年代に、日本に入ってきた「NPO」というコンセプト(としか私はいまだに思っていない)は、1998年の特定非営利活動促進法の制定のあと、2000年代に入り、特に介護保険の制度化によって、福祉介護分野で一気にその数が増えていくとともに、さまざまな分野で00年代に日本で広がった。そして、2011年の東日本大震災を経て、そのことばは市民権を得たと私は思っている(いろいろな方がいろいろ言っている)。

00年代に、NPO法人が広がっていったもう一つの要因は、行政サービスの下請け化=指定管理の促進だともいえると思うし、それによって、指定管理をするだけのためのNPO法人の設立も多かった(いまは、営利法人が一定数うけている)。論点が少し広がるが、00年代は、まだ行政サービス、公共サービスは、営利企業が行うべきものではないという市民の声が一定以上あり(もちろん、いまもある)、それゆえに、NPO法人という一見、公共性が担保される「非営利法人」が指定管理先として期待されたということもあったように思う。

さて、そういった時代をして、NPO法人は現時代に存するわけであるが、「アメリカの10大NPO」ではないが、日本にもかなりの経営規模をもったNPO法人が存在するようになった。NPO全体としては、内閣府の統計をみても、年間予算100万円以下の法人も多く、職員も5人以下の法人が多い。他方、1億円以上の法人は5%程度である。一般にNPO法人は経営規模をして、3極化しているなどと言われたりしている。

しかし、私が思うには、そういった旧態依然の論点からそろそろ抜け出ていくべき時代に入っているように思っている。

文頭に引用した「NPO法人は社会課題に立ち向かう」というスローガンはわかりやすく感じるかもしれないが、実はこれはとても難しい。

たとえば、「社会課題」と言ってもそのことが、「社会課題」であると誰がどのように規定し、その解決方法はだれかに規定されるのか否か。

そもそものNPO論で言えば、民主主義社会、市民社会における「市民」が「自分ごと」として、その「社会課題」を規定し、共有し、そして、解決にむかうためのアクションを行うという「リクツ」だった。
もちろん、その「リクツ」に愚直に向き合おうとしているNPOも一定数あろう、が、今の日本に、「その」民主主義社会もなければ、市民社会もありはせず、前提そのものにたちむかわざるをえないという根本的な構造的矛盾に苛まれる。

それどころか、いまや新自由主義社会の中で、「社会課題」の設定が、政治的、イデオロギー社会的になり、一定の価値観の中で規定される危険性は高まっている。いわゆる「ソーシャル・インパクト」の議論の危うさは、まさにここにあるように感じる。
ソーシャル・ベンチャーということばが示すように、市場論理を活用して、社会課題を解決していくという方法論は、最終的にはその組織が非営利性をもつ必然性を排除する。辛辣にいえば、その際に使われる「非営利性」という「看板」は、その社会課題が政治的、体制的であることを覆い隠したり、緩めたりすることに使われさえする。

さらに、いまやCSRは、さらに「世界的」なSDG’Sのスローガンは、マクロな体制的、政治的な対立や抵抗を、形式的な社会的な発言(いわゆるポリコレ)に収斂させる。

こうして、私たちは手段を単純化させられ、90年代の形骸化した議論を続けるか/経営的手段が市場化されることをよしとせず、小規模・ミクロ化するか/労働運動化するか、という選択肢くらいしか、リーダーたちに提供できなくなった。

組織としての適正規模をコミュニティ診断を基に自らで規定し、経営的な拡大を放棄し
自分たちが取り組む社会課題を科学的に、かつ、民主的に、そして当事者性をもって説明し
そのことを、自らが取り組みコミュニティだけではない、ことを広く発信をし
かつ、3つの財、それぞれで参加とアクションを担保していく

そういったNPO法人のマネジメント論、実践はないものか?

せつに望む

いわゆる高次脳機能障害者の地域での生活を再構築するための・・・

私が「学会的なもの」とから距離をとって久しい。そんな中で、とあることからそういった「学会的なもの」との接点を「視点」として、再度もつ必要がでてきた。
あまり、自分自身、研修というものに参加することもなく、現場で使われていることばも理念と解離されて使われていることも多いから、あまりそこに、力点をおくこともなかった。
また、福祉の分野でいえば、あふれまくる「カタカナ」用語のひどさは、90年代以降、どうしようもなくなっているわけで、そのどうしようもなくなっていることにきちんと立ち向かう気もなくしているから、改めて対峙するつもりをもたないと結構、どうしようもないなぁ、と感じていた。

 きっかけは、現場から。2年ほど前からうちに理学療法士さんが来てくれた。その理学療法士さんと会話を重ねる中で、おもったり、感じたりすること、そして、彼らの理念や専門性テリトリーを垣間きくなかで、自分たちがやっていることと、実際の多職種連携の支援のなかでおこってくる「すきま」と、「支援の連続性のためのマネジメント」をどのようにするべきなのだろうかという疑問を強くもつようにもなった。

 今回のエントリーのタイトル、実によくわからないタイトルだ。このタイトルをつけるにあたっても、さまざまな、横文字のことばをならべてみた。が、少しそれを調べてみると、あいかわらずのわけのわからない「カタカナ」用語の乱発で「意味がわからない」状況になっていることだけが露呈する。では、このことは、医療従事者なら(医療モデルなら)解消する、、、わけでも[ 当然]ない。検査の方法や術式などきわめて数値化ができているものをのぞけば、実はよくわからないことばがあちらも乱立しているようだ。その最たるものがエビデンスとナラティブだったりする。
 話をもどそう。
 当初はICFからの生活モデル、とか。ストレングスモデル、とか。つかってみようかと思ったが、いくつかの文献をみた瞬間にやめた。そのことばを使うことで誤解を招く気がしたからだ。

 いま自分たちは、大きな仮説をもとに、多職種支援のアプローチを実践している。この多職種支援ということばもよくわからないことばで、誰と誰、どの専門職とどの専門職がみたいな話になるとまた、めんどくさい。とりあえず、ここでは、かっこよく、理学療法士精神保健福祉士社会福祉士介護福祉士、相談支援専門員 といっておこう。そうすると、多職種支援といっていいだろう。個人的には、毒を吐けばそれぞれどんな専門職やねん、資格をもっていれば専門職といえるんかい、といいたいところだが。だから、はじめにこの取り組みをするときに、それぞれの役割をきちんと明確化した。福祉職のスタッフはどうもここらあたりが苦手で、とくにうちのスタッフはすぐに「よりそって」しまう。別の場面ではとってもすばらしい実践力なのだが、今回のプロジェクトでは、そこは修正をしていただいた。

 高次脳機能障害者に限らず、中途障害者は「リ・ハビリテション」を強いられることになる。まさに、生活を取り戻す。生活を再構築していく。そのことは避けて通れない。進行性の難病による中途障害者と医療的な症状がある種固定される方とでも実は違っていて、再構築のやり方もかなり違う。
 今回の仮説はその中でも、脳損傷の患者で、身体的な障害が少ない(車いすは常用ではない)かつ、記憶障害、遂行機能障害、注意障害などがあると診断された方を対象に、「医療制度の中ではリハビリが終了」し、かつ、「就労支援(就労リハビリ)」の対象ではないといわれている方たちへの「リハビリ視点を加えた」生活再構築プログラムの有効性についての仮説である。
 この前者の「医療制度の中ではリハビリが終了」はわかりやすい。精神科のデイケアをのぞけば彼らに対して行われる医療制度の枠のリハビリは縮小している(もちろん、自費は別)。後者の「就労支援(就労リハビリ)」の対象は、よくわからない。わたしなどのいいかげんな現場的な視点をいえば、本人が就職したいと思ってとりくむことすべて、といいたくなるが、それはおそらくダメだろう。しかし、障害者総合支援法上の就労支援施設や職業訓練校がこれにあたるといわれると、なんかちがうよなとおもいつつ、うけいれざるをえないのかなともおもう。
 また、「生活リハビリ」ということばをつかおうかともおもったが、これもたぶん、違うなと。「生活リハビリ」はかの有名なM氏が高齢者支援の場面で広くつかったことばで、おそらくそちらの意味が強いのでやめた。そうすると、自分たちの思うことばがない。まぁ、ことばがなければつくってもいいが、それはあんまり思ってもいない。

 私たちが対象にしている方は、医療リハビリの世界の中では、リハビリ対象者になりにくい、リハビリの効果のあがりにくい方なのだそうだ。ご本人や、ご家族はリハビリを強く望まれている、が、リハビリを受けることができないという現状がある(訪問リハは除くが)
 批判をしても仕方がない。あたりまえである。医療リハは、短い時間の中で、強い効果性を求めてアプローチを行うものとされているのだから(そのことについてのはなしはここでは主題ではない)。また、退院に近づくにしたがって、とにかくも歩けてADLが自立、に近い方については、生活上のこまりごとは、記憶障害や遂行機能障害、そして、注意障害と称される障害だ。充分な時間がとれないなか、都道府県にある高次脳機能障害の専門のセンターに入所(・通所)して、という方もおられるだろう。そして、そこでは集中的にそれらの障害へのリハビリ?が行われる。
 そのセンターからの「地域移行」の支援ニーズがうちに近年、多く寄せられている。

 高次脳機能障害として称される
/なぜ、こんな言い方をするかというと高次脳機能障害という言葉がそもそも行政用語でしかないからだ。最近、このカテゴリーづけはやめてほしいと思う。「難病」というカテゴリーも広すぎて困る。狭い意味の「社会福祉」でいえば、支援の共通項は一定以上存するので、許容できなくはないが、医療から福祉、生活へのマネジメントのなかでは、かなりうっとうしい。共通言語化(コンセプト化・コード化)しにくくてしかたがない。/
「障害」も実はかなりあいまいで、また、それぞれの「障害」もよくわかっていないらしく手探りのようだ(私はここの専門家ではないのであいまいな表現になる)。脳損傷特有の半側空間無視などはもっと研究されてほしいと思う。
 わかっていることは、「なんらかの」脳の障害によって、行動に一定の「行いづらさ」があり、生活のしづらさが起こるという点である。中途障害に必ずある「障害の受容」はここでは前提中の前提なので横に置いておく(これはこれで大きな課題なのだが)。

 そこで、最近、研究や実践が進んでいる発達障害の方へのその中での支援・アプローチ方法を応用することと脳と身体の相互作用に強く着目して、生活スキルの向上と再構築に効果がみられるだろうという仮説をたてて実践を行っている。特に参考にさせていただいたのは、 水野敦之さんの「「気づき」と「できる」から始める フレームワークを活用した自閉症支援」です。
記憶障害や遂行機能障害、注意障害は、自閉症スペクトラムよりもADHDの方の行動に似ているように思われるかもしれませんが、方法論的には、フレームワークをつかい、
①視覚的なわかりやすさ →見通しをたてる →忘れたときにも確認ができる 
※記憶障害支援に使われるメモリーノートとの併用によって、日常生活の代償手段として身につけていただく
遂行機能障害や注意障害のある方は、細部よりも全体に注目がいきがちになるので、細部に注目する特性をいかしたこの方法論を逆に活用して、細部への注目を行うように構造化を行う。
③環境のセットアップを「個人で集中できる環境」と「グループで行える環境」とを併用し、かつ、プログラムを個人・集団/グループだけではなく、「パラレル」=同じ作業をあえてグループにせず、個々で行うプログラムを導入して、注意の切り替えをトレーニングする。
④生活上にとくに課題にならない身体的な障害=麻痺に対しても、積極的にアプローチを行う

そして、この限られた空間・時間だけでなく、生活上にこれらのアプローを生かす工夫をいれていただく(実はこれが一番、難しい)。また、ご本人にはつらいだろうが、就労訓練もセットし受けていただく、などの総合的なアプローチを行う。この部分は、障害の受容にもかかわる。

 こういったアプローチは、いわゆる「福祉」ではない。また、「医療」でもない。個人のストレングスに着目するアプローチからすれば、介入しすぎだろう。しかし、過渡的に時期を決め、ICFでいう環境要因に対してのアプローチを「あえて作り出す負荷」によって行うことによって、生活スキルの向上と再構築に寄与できるのではないかと思っている。←これが仮説

 さて、こういった実践が、はたして学会的なものなのか、どうなのかは今後、問われていくだろう。現状は、その地平にはかなりの距離があることはよくよく承知しているが。 

ACTの周辺の福祉的支援って何?

 昨日、寝屋川の保健所の主催で花園大学の三品先生の「イギリスにおける精神障害のある人への地域生活支援ACTを中心に」という研修会が行われて、参加してきた。
 ACT=Assertive Community Treatment。日本でも先駆的に行われているACT-Kにも取り組まれていて、イギリスのバーミングガム、アメリカのインディアナ州、そして日本の話を、2時間あまりたっぷりときかせていただいた。

 あらためて書くまでもないかもしれないが、とみた自身は、ACTや包括的な地域生活支援、「ケアマネジメント」といった用語が先んじる議論はきらいである。昨日の三品先生のお話はたいへん勉強になったし、興味深かったが、だからといって、ACTはすばららしいというつもりはサラサラない。

 昨年の夏に聞きに行った 日本外来精神医学学会での西田先生のイギリスの話。早期支援・早期介入=日本外来精神医学学会にいってでのロンドンの話と、昨日の三品先生のバーミングガムの話。がリンクして、イギリスがNHSの中で精神医療に関して何をしようとしているのかがとてもよくわかった。たまに読む高齢者のケアマネジメント論のカリスマの一人竹内孝仁氏のニューキャッスルのケアマネジメントの変化の話ともオーバーラップする。要するにコミュニティケアの実現のためのミクロとメゾレベルの方法論と政策展開である。三品先生の「とにかく入院させない」と何度となく、繰り返されたことばが印象的だった。私の理解ではACTはケアマネジメントではなく、危機介入モデルの包括的チームアプローチモデルでしかない。そういった意味で、医療が福祉を包含したという言い方は正確ではなく、「医療と福祉の統合的な地域生活の場における医療支援」というように思った。三品先生は、ACTは地域医療ではなく、生活支援だといわれていたが、私にはそうは思えなかった。地域生活の場での医療支援という言い方の方が私にはぴったりきた。
 
 その話をききながら、逆に、福祉のことを考えた。イギリス的な言い方をすれば、ソーシャルサービスになるだろうか。研究をされている諸氏の中で、ご存知の方はぜひ教えていただきたい。継続的に支援を必要とする人たちの生活支援を。
 昨日のACTの話でもアメリカでもイギリスでも形は違えどピアサポートの重要性が説かれていた。そこには、おそらくリカバリーをした先の「生活者」としてのロールモデルとしての役割を期待しているのだろうと思えた。ノーマライゼーションの思想を持ち出すまでもなく、この30年の世界の障害者福祉の趨勢はインクルージョンである。特別な支援の場ではなく、地域社会の中での【生活者】としての生活である。しかし、精神障害者であろうと、身体、知的障害者であろうと、継続的に【生活者】として生活するために支援を必要とされる方は数多い。権利擁護、経済的な支援、住居、生活支援(介助)、就労、教育、移動など。日本では、まだ、特別な福祉(関連領域)として語られる分野である。では、ACTやイギリスの危機介入モデルの周辺部の【生活者】としての支援が見えない。一市民、一【生活者】としての地域社会で暮らすための支援の実態を誰か教えて下さらないだろうか。それこそが、本来、日本でいう「福祉」関係者が知りたいことなんじゃないのかなぁ。