2019年台風15号に見る「風害」という被災の特徴 被災経験者視点から

昨年の台風21号に続いて今年の台風15号

台風15号で甚大な被害を受けたのに、まったく報道されない千葉県館山・南房総の様子 #台風15号 - NAVER まとめ https://matome.naver.jp/odai/2156808762096005401

台風15号】「暑くて寝られず」「ろうそく頼り」 千葉で停電続く、なお57万軒 断水も9万戸、ライフライン深刻 | 2019/9/10 - 千葉日報 https://this.kiji.is/543989177706021985

地震や水害とは違い「風害」と言っていい被災の類型だと思う。広い地域で被災、今日で72時間、道路の寸断もあるみたいだが電力会社のアナウンスからすると今日でかなりの停電は解消させるといっているみたいだし
(今日中は危うい?)東電「千葉の停電、11日中の復旧見通せず」 46万戸
https://www.asahi.com/articles/ASM9C2RWGM9CUTIL001.html

揚力ポンプの復活により断水も解消していくようだ。

昨年の台風21号で被災した者としてここからの潮が引くような関心の低下にまず懸念する。

大きな地域の停電は解消されてもここから電信柱の倒壊を直し、引き込み線の断線を調査して直していかなければならない。大→中→小と個別化されていくわけだ。電信柱がエリアですべて倒れていれば数週間かかる。
停電の場合、ニュースになるのは1万戸くらいから、それ以下だと関心は低下する。

もちろん、停電しているか、断水しているか、はその地域、その家の人しかわからないし、場合によっては両隣は復旧したけどみたいなことも起こる。道路のこっちと向こうみたいなことも起こる。

これは短時間特定範囲に起こる豪雨水害と風害に特徴的だと感じている。

地域の「共苦性」が起こりにくく「孤立」化しやすい。

今回の台風15号は過ぎたあと酷暑で熱中症の危険ということで「電気」に注目がいっているが風害の被害でこわいのは続く雨。(昨日、一部で雷雨があったりしたみたいだけど)

屋根が吹き飛んだり建物が壊れているから続く雨でいろいろなものがダメになる。

すでにブルシート不足も報道ででているけど屋根にはるのは厚さが#3000、ホームセンターに行かないとない。厚さが必要。それも、数ヶ月で実はだめになるけど。
https://www.amazon.co.jp/market-k-防水・厚手-ブルーシート-3000/dp/B01MXUSK9V


エリア的には特に千葉県南部や伊豆三浦半島なんかは兼業農家さんも多いだろうからシートさえ手に入れば自分たちでやれる人も多いだろうけど千葉市南部から東南部は市街地も多いし厳しいだろうなあとは高齢化の問題。
千葉県地図
https://www.pref.chiba.lg.jp/kouhou/kenmin/kenmin.html

千葉県の高齢化の状況
https://www.chiba.med.or.jp/general/iryonet/article/news/20130702/01/09.jpg

今回の被災状況をみていると過疎化、高齢化している地域がやはり弱い

追加でもう一つは千葉市の問題。東京に近いエリアと遠いエリアの格差。停電エリアをみると千葉市の南東部や南部。山もある。ここら千葉市長がんばってほしい。

停電してるから情報発信が遅れてるだけと信じたいけど、災害対策本部やボラセン遅い気がするのは、なぜ?
千葉県社協サイト http://www.chibakenshakyo.com/

千葉市社協は少しでている http://www.chiba-shakyo.jp/vc/%e7%81%bd%e5%ae%b3%e3%83%9c%e3%83%a9%e3%83%b3%e3%83%86%e3%82%a3%e3%82%a2%e6%83%85%e5%a0%b1/

あと被災エリア別荘が多い。これ懸念事項。お金持ちや芸能人「むちゃくちゃになったらしい」じゃなくて早々に行って発信して地域に恩返しして
東MAXが購入した館山の別荘が台風被害に 植樹した木もどこかへ
https://news.livedoor.com/article/detail/17059634/

別荘が多い地域は地域全体の復旧復興が遅れやすいとも言われています。

これだけ広域に住宅被害がでると去年の西日本豪雨同様、過疎化の進んでる地域の過疎化は助長するし、大阪北部地震台風21号同様、市街地の古い住宅は壊され、弱者の追い出しがはじまる。行政、社協npoの素早い的確な情報収集と発信を望みます。

今回なんでか、コンビニ動きのろいのもナゾ
台風15号/セブン10店、ファミマ2店、ローソン94店で休業|流通ニュース https://www.ryutsuu.biz/store/l090942.html

まさに「いま」の時代に求められている NPO法人のマネジメント論、実践

NPO(法人)が戦うべきは社会課題である」某有名NPO法人のリーダーたちがよく使うフレーズである。

1990年代に、日本に入ってきた「NPO」というコンセプト(としか私はいまだに思っていない)は、1998年の特定非営利活動促進法の制定のあと、2000年代に入り、特に介護保険の制度化によって、福祉介護分野で一気にその数が増えていくとともに、さまざまな分野で00年代に日本で広がった。そして、2011年の東日本大震災を経て、そのことばは市民権を得たと私は思っている(いろいろな方がいろいろ言っている)。

00年代に、NPO法人が広がっていったもう一つの要因は、行政サービスの下請け化=指定管理の促進だともいえると思うし、それによって、指定管理をするだけのためのNPO法人の設立も多かった(いまは、営利法人が一定数うけている)。論点が少し広がるが、00年代は、まだ行政サービス、公共サービスは、営利企業が行うべきものではないという市民の声が一定以上あり(もちろん、いまもある)、それゆえに、NPO法人という一見、公共性が担保される「非営利法人」が指定管理先として期待されたということもあったように思う。

さて、そういった時代をして、NPO法人は現時代に存するわけであるが、「アメリカの10大NPO」ではないが、日本にもかなりの経営規模をもったNPO法人が存在するようになった。NPO全体としては、内閣府の統計をみても、年間予算100万円以下の法人も多く、職員も5人以下の法人が多い。他方、1億円以上の法人は5%程度である。一般にNPO法人は経営規模をして、3極化しているなどと言われたりしている。

しかし、私が思うには、そういった旧態依然の論点からそろそろ抜け出ていくべき時代に入っているように思っている。

文頭に引用した「NPO法人は社会課題に立ち向かう」というスローガンはわかりやすく感じるかもしれないが、実はこれはとても難しい。

たとえば、「社会課題」と言ってもそのことが、「社会課題」であると誰がどのように規定し、その解決方法はだれかに規定されるのか否か。

そもそものNPO論で言えば、民主主義社会、市民社会における「市民」が「自分ごと」として、その「社会課題」を規定し、共有し、そして、解決にむかうためのアクションを行うという「リクツ」だった。
もちろん、その「リクツ」に愚直に向き合おうとしているNPOも一定数あろう、が、今の日本に、「その」民主主義社会もなければ、市民社会もありはせず、前提そのものにたちむかわざるをえないという根本的な構造的矛盾に苛まれる。

それどころか、いまや新自由主義社会の中で、「社会課題」の設定が、政治的、イデオロギー社会的になり、一定の価値観の中で規定される危険性は高まっている。いわゆる「ソーシャル・インパクト」の議論の危うさは、まさにここにあるように感じる。
ソーシャル・ベンチャーということばが示すように、市場論理を活用して、社会課題を解決していくという方法論は、最終的にはその組織が非営利性をもつ必然性を排除する。辛辣にいえば、その際に使われる「非営利性」という「看板」は、その社会課題が政治的、体制的であることを覆い隠したり、緩めたりすることに使われさえする。

さらに、いまやCSRは、さらに「世界的」なSDG’Sのスローガンは、マクロな体制的、政治的な対立や抵抗を、形式的な社会的な発言(いわゆるポリコレ)に収斂させる。

こうして、私たちは手段を単純化させられ、90年代の形骸化した議論を続けるか/経営的手段が市場化されることをよしとせず、小規模・ミクロ化するか/労働運動化するか、という選択肢くらいしか、リーダーたちに提供できなくなった。

組織としての適正規模をコミュニティ診断を基に自らで規定し、経営的な拡大を放棄し
自分たちが取り組む社会課題を科学的に、かつ、民主的に、そして当事者性をもって説明し
そのことを、自らが取り組みコミュニティだけではない、ことを広く発信をし
かつ、3つの財、それぞれで参加とアクションを担保していく

そういったNPO法人のマネジメント論、実践はないものか?

せつに望む

いわゆる高次脳機能障害者の地域での生活を再構築するための・・・

私が「学会的なもの」とから距離をとって久しい。そんな中で、とあることからそういった「学会的なもの」との接点を「視点」として、再度もつ必要がでてきた。
あまり、自分自身、研修というものに参加することもなく、現場で使われていることばも理念と解離されて使われていることも多いから、あまりそこに、力点をおくこともなかった。
また、福祉の分野でいえば、あふれまくる「カタカナ」用語のひどさは、90年代以降、どうしようもなくなっているわけで、そのどうしようもなくなっていることにきちんと立ち向かう気もなくしているから、改めて対峙するつもりをもたないと結構、どうしようもないなぁ、と感じていた。

 きっかけは、現場から。2年ほど前からうちに理学療法士さんが来てくれた。その理学療法士さんと会話を重ねる中で、おもったり、感じたりすること、そして、彼らの理念や専門性テリトリーを垣間きくなかで、自分たちがやっていることと、実際の多職種連携の支援のなかでおこってくる「すきま」と、「支援の連続性のためのマネジメント」をどのようにするべきなのだろうかという疑問を強くもつようにもなった。

 今回のエントリーのタイトル、実によくわからないタイトルだ。このタイトルをつけるにあたっても、さまざまな、横文字のことばをならべてみた。が、少しそれを調べてみると、あいかわらずのわけのわからない「カタカナ」用語の乱発で「意味がわからない」状況になっていることだけが露呈する。では、このことは、医療従事者なら(医療モデルなら)解消する、、、わけでも[ 当然]ない。検査の方法や術式などきわめて数値化ができているものをのぞけば、実はよくわからないことばがあちらも乱立しているようだ。その最たるものがエビデンスとナラティブだったりする。
 話をもどそう。
 当初はICFからの生活モデル、とか。ストレングスモデル、とか。つかってみようかと思ったが、いくつかの文献をみた瞬間にやめた。そのことばを使うことで誤解を招く気がしたからだ。

 いま自分たちは、大きな仮説をもとに、多職種支援のアプローチを実践している。この多職種支援ということばもよくわからないことばで、誰と誰、どの専門職とどの専門職がみたいな話になるとまた、めんどくさい。とりあえず、ここでは、かっこよく、理学療法士精神保健福祉士社会福祉士介護福祉士、相談支援専門員 といっておこう。そうすると、多職種支援といっていいだろう。個人的には、毒を吐けばそれぞれどんな専門職やねん、資格をもっていれば専門職といえるんかい、といいたいところだが。だから、はじめにこの取り組みをするときに、それぞれの役割をきちんと明確化した。福祉職のスタッフはどうもここらあたりが苦手で、とくにうちのスタッフはすぐに「よりそって」しまう。別の場面ではとってもすばらしい実践力なのだが、今回のプロジェクトでは、そこは修正をしていただいた。

 高次脳機能障害者に限らず、中途障害者は「リ・ハビリテション」を強いられることになる。まさに、生活を取り戻す。生活を再構築していく。そのことは避けて通れない。進行性の難病による中途障害者と医療的な症状がある種固定される方とでも実は違っていて、再構築のやり方もかなり違う。
 今回の仮説はその中でも、脳損傷の患者で、身体的な障害が少ない(車いすは常用ではない)かつ、記憶障害、遂行機能障害、注意障害などがあると診断された方を対象に、「医療制度の中ではリハビリが終了」し、かつ、「就労支援(就労リハビリ)」の対象ではないといわれている方たちへの「リハビリ視点を加えた」生活再構築プログラムの有効性についての仮説である。
 この前者の「医療制度の中ではリハビリが終了」はわかりやすい。精神科のデイケアをのぞけば彼らに対して行われる医療制度の枠のリハビリは縮小している(もちろん、自費は別)。後者の「就労支援(就労リハビリ)」の対象は、よくわからない。わたしなどのいいかげんな現場的な視点をいえば、本人が就職したいと思ってとりくむことすべて、といいたくなるが、それはおそらくダメだろう。しかし、障害者総合支援法上の就労支援施設や職業訓練校がこれにあたるといわれると、なんかちがうよなとおもいつつ、うけいれざるをえないのかなともおもう。
 また、「生活リハビリ」ということばをつかおうかともおもったが、これもたぶん、違うなと。「生活リハビリ」はかの有名なM氏が高齢者支援の場面で広くつかったことばで、おそらくそちらの意味が強いのでやめた。そうすると、自分たちの思うことばがない。まぁ、ことばがなければつくってもいいが、それはあんまり思ってもいない。

 私たちが対象にしている方は、医療リハビリの世界の中では、リハビリ対象者になりにくい、リハビリの効果のあがりにくい方なのだそうだ。ご本人や、ご家族はリハビリを強く望まれている、が、リハビリを受けることができないという現状がある(訪問リハは除くが)
 批判をしても仕方がない。あたりまえである。医療リハは、短い時間の中で、強い効果性を求めてアプローチを行うものとされているのだから(そのことについてのはなしはここでは主題ではない)。また、退院に近づくにしたがって、とにかくも歩けてADLが自立、に近い方については、生活上のこまりごとは、記憶障害や遂行機能障害、そして、注意障害と称される障害だ。充分な時間がとれないなか、都道府県にある高次脳機能障害の専門のセンターに入所(・通所)して、という方もおられるだろう。そして、そこでは集中的にそれらの障害へのリハビリ?が行われる。
 そのセンターからの「地域移行」の支援ニーズがうちに近年、多く寄せられている。

 高次脳機能障害として称される
/なぜ、こんな言い方をするかというと高次脳機能障害という言葉がそもそも行政用語でしかないからだ。最近、このカテゴリーづけはやめてほしいと思う。「難病」というカテゴリーも広すぎて困る。狭い意味の「社会福祉」でいえば、支援の共通項は一定以上存するので、許容できなくはないが、医療から福祉、生活へのマネジメントのなかでは、かなりうっとうしい。共通言語化(コンセプト化・コード化)しにくくてしかたがない。/
「障害」も実はかなりあいまいで、また、それぞれの「障害」もよくわかっていないらしく手探りのようだ(私はここの専門家ではないのであいまいな表現になる)。脳損傷特有の半側空間無視などはもっと研究されてほしいと思う。
 わかっていることは、「なんらかの」脳の障害によって、行動に一定の「行いづらさ」があり、生活のしづらさが起こるという点である。中途障害に必ずある「障害の受容」はここでは前提中の前提なので横に置いておく(これはこれで大きな課題なのだが)。

 そこで、最近、研究や実践が進んでいる発達障害の方へのその中での支援・アプローチ方法を応用することと脳と身体の相互作用に強く着目して、生活スキルの向上と再構築に効果がみられるだろうという仮説をたてて実践を行っている。特に参考にさせていただいたのは、 水野敦之さんの「「気づき」と「できる」から始める フレームワークを活用した自閉症支援」です。
記憶障害や遂行機能障害、注意障害は、自閉症スペクトラムよりもADHDの方の行動に似ているように思われるかもしれませんが、方法論的には、フレームワークをつかい、
①視覚的なわかりやすさ →見通しをたてる →忘れたときにも確認ができる 
※記憶障害支援に使われるメモリーノートとの併用によって、日常生活の代償手段として身につけていただく
遂行機能障害や注意障害のある方は、細部よりも全体に注目がいきがちになるので、細部に注目する特性をいかしたこの方法論を逆に活用して、細部への注目を行うように構造化を行う。
③環境のセットアップを「個人で集中できる環境」と「グループで行える環境」とを併用し、かつ、プログラムを個人・集団/グループだけではなく、「パラレル」=同じ作業をあえてグループにせず、個々で行うプログラムを導入して、注意の切り替えをトレーニングする。
④生活上にとくに課題にならない身体的な障害=麻痺に対しても、積極的にアプローチを行う

そして、この限られた空間・時間だけでなく、生活上にこれらのアプローを生かす工夫をいれていただく(実はこれが一番、難しい)。また、ご本人にはつらいだろうが、就労訓練もセットし受けていただく、などの総合的なアプローチを行う。この部分は、障害の受容にもかかわる。

 こういったアプローチは、いわゆる「福祉」ではない。また、「医療」でもない。個人のストレングスに着目するアプローチからすれば、介入しすぎだろう。しかし、過渡的に時期を決め、ICFでいう環境要因に対してのアプローチを「あえて作り出す負荷」によって行うことによって、生活スキルの向上と再構築に寄与できるのではないかと思っている。←これが仮説

 さて、こういった実践が、はたして学会的なものなのか、どうなのかは今後、問われていくだろう。現状は、その地平にはかなりの距離があることはよくよく承知しているが。 

ACTの周辺の福祉的支援って何?

 昨日、寝屋川の保健所の主催で花園大学の三品先生の「イギリスにおける精神障害のある人への地域生活支援ACTを中心に」という研修会が行われて、参加してきた。
 ACT=Assertive Community Treatment。日本でも先駆的に行われているACT-Kにも取り組まれていて、イギリスのバーミングガム、アメリカのインディアナ州、そして日本の話を、2時間あまりたっぷりときかせていただいた。

 あらためて書くまでもないかもしれないが、とみた自身は、ACTや包括的な地域生活支援、「ケアマネジメント」といった用語が先んじる議論はきらいである。昨日の三品先生のお話はたいへん勉強になったし、興味深かったが、だからといって、ACTはすばららしいというつもりはサラサラない。

 昨年の夏に聞きに行った 日本外来精神医学学会での西田先生のイギリスの話。早期支援・早期介入=日本外来精神医学学会にいってでのロンドンの話と、昨日の三品先生のバーミングガムの話。がリンクして、イギリスがNHSの中で精神医療に関して何をしようとしているのかがとてもよくわかった。たまに読む高齢者のケアマネジメント論のカリスマの一人竹内孝仁氏のニューキャッスルのケアマネジメントの変化の話ともオーバーラップする。要するにコミュニティケアの実現のためのミクロとメゾレベルの方法論と政策展開である。三品先生の「とにかく入院させない」と何度となく、繰り返されたことばが印象的だった。私の理解ではACTはケアマネジメントではなく、危機介入モデルの包括的チームアプローチモデルでしかない。そういった意味で、医療が福祉を包含したという言い方は正確ではなく、「医療と福祉の統合的な地域生活の場における医療支援」というように思った。三品先生は、ACTは地域医療ではなく、生活支援だといわれていたが、私にはそうは思えなかった。地域生活の場での医療支援という言い方の方が私にはぴったりきた。
 
 その話をききながら、逆に、福祉のことを考えた。イギリス的な言い方をすれば、ソーシャルサービスになるだろうか。研究をされている諸氏の中で、ご存知の方はぜひ教えていただきたい。継続的に支援を必要とする人たちの生活支援を。
 昨日のACTの話でもアメリカでもイギリスでも形は違えどピアサポートの重要性が説かれていた。そこには、おそらくリカバリーをした先の「生活者」としてのロールモデルとしての役割を期待しているのだろうと思えた。ノーマライゼーションの思想を持ち出すまでもなく、この30年の世界の障害者福祉の趨勢はインクルージョンである。特別な支援の場ではなく、地域社会の中での【生活者】としての生活である。しかし、精神障害者であろうと、身体、知的障害者であろうと、継続的に【生活者】として生活するために支援を必要とされる方は数多い。権利擁護、経済的な支援、住居、生活支援(介助)、就労、教育、移動など。日本では、まだ、特別な福祉(関連領域)として語られる分野である。では、ACTやイギリスの危機介入モデルの周辺部の【生活者】としての支援が見えない。一市民、一【生活者】としての地域社会で暮らすための支援の実態を誰か教えて下さらないだろうか。それこそが、本来、日本でいう「福祉」関係者が知りたいことなんじゃないのかなぁ。

公(こう)・公(おおやけ)と地域・コミュニティ

公(こう)・公(おおやけ)と地域・コミュニティ

 私が大学院のときにお世話になった先生の傘寿の会のご案内をいただいた。先生とは池田敬正先生。社会事業史、社会福祉史の先生である。
 大学院当時、先生を囲んで私たちは、好きな議論を思う存分にさせていただいた。当時のメンバーの多くは、いま、教壇にたち、研究職をされている。「野に降りた」(昔の言い方だな)私は、珍しい存在である。

 当時の学びの中で、とても強烈に示唆を受けたことの一つに、公(おおやけ)の考え方がある。大学院修士課程の当時に指導をして頂いた柴田善守先生と池田敬正先生。考え方は違うが、大学時代から地域(コミュニティ)に興味をもち、研究をしようとしていた私は、洋の東西の公と地域、そして、下からの公と地域、そして「官・公・民・私」の歴史的な考え方を学んだ。その学びは、いまだに私の思想の中心にある。

 いま、日本はこの「公と地域」について、大きな転換点にある。それは、社会構造そのものが変わってきていて、考えなければならない時期にあるという意味と、政府が盛んにそのことについて、議論をしているという意味の2つで、である。

 いま内閣府が議論をすすめている2つの会議がある。
一つは、新しい公共について
新しい公共】円卓会議
    http://www5.cao.go.jp/entaku/index.html

もう一つは、国と地方の関係を見直そうという会議
 地域主権戦略会議
    http://www.cao.go.jp/chiiki-shuken/kaigi/kaigi-index.html

福祉とは関係ないやなどと思わないでほしい。「えらい」議論が行われていて、すごいスピードですすめられている。
2つの会議に共通するのは、歪められた歴史認識だと思う。どうも、この国のこういった会議に出る識者や政治家は、明治期の帝国主義的な家族思想、地域思想に固められているように思えて仕方がない。新しい、とかいいながら、基本は40年前の日本型福祉国家思想当時の考え方と何も変わらない。
 中央集権的な国家作りをめざし、それを100年かけて、政治的、行政的な権力によって実現し、自主的な「公」を破壊し、末端の社会的基礎集団である家族までもその仕組みに組み入れたのちに、また、違った形のトップダウン的な権力的構造変換を求める。その際に、多数権力にのみ依拠する歪んだ民主主義と、市場化個人主義に依拠し、さも、住民自治というきれい事を並べていく議論をされてもその先にあるものは不安でしかない。

ものすごく乱暴な議論をすれば、日本はこの100年官僚主義的な中央集権国家を管理国家として実現してきた。それは、国−地方−地域・会社−家族−個人という構図を作り上げ、市場化資本主義に対して、日本という国営会社が計画的に取り組んできた。グローバル経済化の中で、その国営会社の経営方針が通用しなくなり、傾いているのだと思う。

新しい公共」「地域主権」などという美辞麗句を並べられても、根本的に国の形をどうしていこうとしているのかが見えないのであれば、それは、積み上がる国の借金を単に、地方や国民に押しつけるだけでしかない。責任のなすりつけでしかない。人口構造の変化だけをして、成熟した社会であるという偏った見方、民主主義を多数決主義と勘違いしている議論、貧困化していく社会の中では格差が固定化し、「参加」は丁寧な社会的補償を行わなければ担保されない。それこそが民主主義の根幹の一つではないのか。
何か、まちがっている。そう思わざるをえない。

「−8」の怪 障害者自立支援法を総括してみる(4)

私自身が、障害者自立支援法の中で、もっとも首をかしげる取り決めの一つは、日中活動の支給決定の上限の設定である。障害者自立支援法では、介護給付の日中活動は、最大「その月の日数−8」しかでないことになっている。この規定は、障害者自立支援法の詳細が決まるに従って出てきた規定であるが、この規定については、なぜ、なんの目的での説明が論理的にできない。

 障害者自立支援法になり、それまで月割で出されていた報酬額が日割りになった。そうすると、日中活動施設は、月の開所日数をできるだけ「−8」の日数開所し、報酬を最大限得ようとする。そうすると、イレギュラーに土曜日に開所が行われたりする。

 さらに、障害者自立支援法のもう一つの特徴に、昼夜のサービス区別をしたことがある。24時間の施設は制度上(報酬上)はなくなり、昼のサービスと夜のサービスが分かれた。ところが、昼のサービスは月のうち8日間は保障されない。もともとの入所施設で暮らしている人は、8日間は対象にならず、その8日間に関しては、夜のサービスが昼もサービスを行うことになる。

 障害者自立支援法の一つの大きな目標が、【働く】を保障することであるならば、働くことを準備するための施設と位置づけられる就労継続や就労移行ですら、「−8」ルールが存在している。もし仕事が忙しかったら、土曜日に出勤することもあるだろう。一律にどうしてこのようなことが決められたのであろうか。

 常にケアの必要な人の場合、「−8」では支給決定量が足りない方もおられる。その場合は、結局、他のサービスや地域活動支援センターを組み合わせる必要がでてくる。

 「報酬の日割り」(これはまた別に)自体を絶対に評価できないものとは思わないが、「日割り」×「−8」は、財政的抑制しかその要因としては考えられない。介護保険とは違い、障害者支援の場合、財政的にも、地域福祉サービスの日中活動における割合や重要性が高い。それは障害者福祉が歩んできた歴史から生み出されてきたもので、それは単に、デイアクティビティサービスではない。「−8」には、お一人お一人の生活が先にあって、その生活を支えるという思想がない。日中活動のサービス種別そのものよりも、私はこの「−8」支給決定ルールに、障害者自立支援法の言い逃れようのない財政抑制の背景を思う。

障害程度区分について−障害者自立支援法を総括する(3)

 さて、障害者自立支援法の具体的な内容のことについて、話を進めていく。こうなってくると、結構、現場モードになる(苦笑)
 障害程度区分は、障害者自立支援法の導入にあたり、もっとも政治的なものだっと評価できるように思う。なぜならば、支援費制度から障害者自立支援法の移行に辺り、国が繰り返し述べていたのは、支援費制度の地域格差に対する批判であり、その実、地域や個人による給付・サービスの格差を問題として、全国一律の給付基準、その透明性を担保した新しい制度の導入するとしたからである。
 それが、この介護保険とほぼ同様の障害程度区分の認定作業である。
 結果、どうだったのだろうか。
 まず、「グランドデザインの通信簿」でも書いたように、導入時の目的を障害程度区分は達成できなかった。つまり、地域格差の解消には全く寄与できなかったのである。介護保険導入時も、判定の全国的なばらつきは存在した。特に、二次判定での変更については、かなりの割合で行われており、その後の改正にあたり、二次判定での変更についてのルールがどんどん作られた。その意味では、はじめから障害程度区分認定システムでは全国一律の仕組みが形骸化することはわかっていた。
 また、介護保険の認定システムの変更の歴史をみれば、認知症の方の判定の付加的対応の仕組みから、知的障害者精神障害者の判定が軽度化することはわかっており、たとえ、79項目に27項目をつけくわえても、その問題の根本的な解消にはならないことはわかっていた。
 さらに、介護保険との統合を前提にこのシステムを導入したとして、その前提が崩れたときに、障害程度区分は給付額と連動しないものと化した。国庫負担基準額との関係性は残ったが、区分間の流用という仕組みが残ったことなどを考えるとその実、ほとんどなんの役にもたっていない。生活介護などの報酬単価に障害者自立支援法の重度者への傾斜報酬の思想が反映されているが。
 軽度者の重度対応サービスの摘要制限機能としてしか機能していない。
 一方で、この仕組みは多額の費用がかかっている。その額は定かではないが、介護保険が、認定システムに年間400億円かかっているそうである。訪問調査、医師の意見書、審査会の開催、システムにかかる費用は、介護保険と同じく使われている。人数と頻度が違うので、400億にはもちろんならないが、数十億の費用が全国で年間使われていると想像できる。介護保険の方でもこの仕組みに対して、無駄遣いではないか、不必要ではないか、という意見もでてきている中、ほとんど役にたたないシステムは必要ないだろう。
http://blog.livedoor.jp/masahero3/archives/51335121.html
http://blog.goo.ne.jp/sirasawamasakazu/e/9265e4f305f4b5ea54085fced02b32c9