公(こう)・公(おおやけ)と地域・コミュニティ

公(こう)・公(おおやけ)と地域・コミュニティ

 私が大学院のときにお世話になった先生の傘寿の会のご案内をいただいた。先生とは池田敬正先生。社会事業史、社会福祉史の先生である。
 大学院当時、先生を囲んで私たちは、好きな議論を思う存分にさせていただいた。当時のメンバーの多くは、いま、教壇にたち、研究職をされている。「野に降りた」(昔の言い方だな)私は、珍しい存在である。

 当時の学びの中で、とても強烈に示唆を受けたことの一つに、公(おおやけ)の考え方がある。大学院修士課程の当時に指導をして頂いた柴田善守先生と池田敬正先生。考え方は違うが、大学時代から地域(コミュニティ)に興味をもち、研究をしようとしていた私は、洋の東西の公と地域、そして、下からの公と地域、そして「官・公・民・私」の歴史的な考え方を学んだ。その学びは、いまだに私の思想の中心にある。

 いま、日本はこの「公と地域」について、大きな転換点にある。それは、社会構造そのものが変わってきていて、考えなければならない時期にあるという意味と、政府が盛んにそのことについて、議論をしているという意味の2つで、である。

 いま内閣府が議論をすすめている2つの会議がある。
一つは、新しい公共について
新しい公共】円卓会議
    http://www5.cao.go.jp/entaku/index.html

もう一つは、国と地方の関係を見直そうという会議
 地域主権戦略会議
    http://www.cao.go.jp/chiiki-shuken/kaigi/kaigi-index.html

福祉とは関係ないやなどと思わないでほしい。「えらい」議論が行われていて、すごいスピードですすめられている。
2つの会議に共通するのは、歪められた歴史認識だと思う。どうも、この国のこういった会議に出る識者や政治家は、明治期の帝国主義的な家族思想、地域思想に固められているように思えて仕方がない。新しい、とかいいながら、基本は40年前の日本型福祉国家思想当時の考え方と何も変わらない。
 中央集権的な国家作りをめざし、それを100年かけて、政治的、行政的な権力によって実現し、自主的な「公」を破壊し、末端の社会的基礎集団である家族までもその仕組みに組み入れたのちに、また、違った形のトップダウン的な権力的構造変換を求める。その際に、多数権力にのみ依拠する歪んだ民主主義と、市場化個人主義に依拠し、さも、住民自治というきれい事を並べていく議論をされてもその先にあるものは不安でしかない。

ものすごく乱暴な議論をすれば、日本はこの100年官僚主義的な中央集権国家を管理国家として実現してきた。それは、国−地方−地域・会社−家族−個人という構図を作り上げ、市場化資本主義に対して、日本という国営会社が計画的に取り組んできた。グローバル経済化の中で、その国営会社の経営方針が通用しなくなり、傾いているのだと思う。

新しい公共」「地域主権」などという美辞麗句を並べられても、根本的に国の形をどうしていこうとしているのかが見えないのであれば、それは、積み上がる国の借金を単に、地方や国民に押しつけるだけでしかない。責任のなすりつけでしかない。人口構造の変化だけをして、成熟した社会であるという偏った見方、民主主義を多数決主義と勘違いしている議論、貧困化していく社会の中では格差が固定化し、「参加」は丁寧な社会的補償を行わなければ担保されない。それこそが民主主義の根幹の一つではないのか。
何か、まちがっている。そう思わざるをえない。